復興

 何をするでも無く過ごした日は、あっと言う間に過ぎて行き、
震災後1週間ほど経った頃に電車で単身、神戸へと向かったのです。
 当時、三田から神戸に入るルートは、神戸電鉄で三田から谷上へ、
そこから地下鉄で新神戸、その後は、ひたすら歩く・・
当時、神戸にいた親戚(叔父の家族と叔母夫婦)が春日野道にいたのですが、
避難所(小学校)暮らしで、新神戸から元住まいまでの途中なので、
母から頼まれた (風邪が流行っていたが薬が不足していたので) 薬や、
お握り、肉の佃煮などを配り・・・がしかし、お握りや日々の食料は、
この頃は、もう飽和状態であまっているくらいになっていました。
偏った情報により本当に、現場で欲しいものが現場に届いていない状況でした。
この頃は、薬や乳児用のミルク、生理用品が不足していたように思います。
かといって援助物資の食品無しでは、誰一人生活できない事は変わりありません。
けれど、
飽和状態の援助物資の食べ物に被災者さえも、感謝と言う気持ちも薄れ、
飽きてきたーというのが事実でした。  
が! 薬は、有るだけちょうだいと言う勢いでした。
その後、職場(当時は、建材や住機の卸販売施工)に立ち寄りブルーシートを
もらって、住んでいた所の近くの避難所によって、
友達に薬とお握り佃煮を渡して何人かの知っている人にも薬を渡して、
その後元住まいにたどり着きました。
 震災当時、近所の家内の友人が言った通り、正面から見ると
人が中で生きていたようには、見えません。
屋根をつたって裏に回るとなんと形になって残っているではありませんか、
ラッキー!! まるで、泥棒のように窓を空けて忍び込み
(姿は、そのまんまですが、この時は、まだ余震が続いていて本当に怖かったのです。)
タンスの引出しに入っている通帳と印鑑(泥棒が横行していたと聞きますが
見るからにつぶれた家だったので入られる事も無く無事)を取合えず持って、
あとは、家内の下着、など当座のものを漁ってバッグに詰めて、
職場からもらってきた、ブルーシート(この頃、闇相場では、
1枚3000円位していたと思います。)を屋根にかけて、
次に掘り出すまで痛まないように雨を防いで元住まいを後にました。
もう1度、避難所により、友人の奥さんに、家内の下着の何枚かを渡して、
職場から営業車を借りて帰りました。
 次の日から仕事に復帰すべく、事務所ではなく部長の自宅
(三木市が拠点となって営業をしていたのです。)に通い、
そこから営業兼配達に走りまわりました。
それから程なく神戸の事務所が使えるようになったのです。
  が 神戸に仕事場が戻れたものの私は、相変わらず三田の実家、
毎日の通勤は、1時間半から2時間、渋滞渋滞、もうイヤになるくらい、
これがたまにだったら、イライラもするでしょうが、毎日ですから、
諦めと言うか慣れてきまして気になら無くなってきて、・・・
気の短い私が鍛えられた???
 通勤だけでは、なく仕事中何処に行くにも渋滞、おまけに規制、
今から思うと途方も無いくらい我慢の我慢の毎日、仕事のほうは、バイク、
自転車を使って近くを回ったり、ちなみに自転車の活動範囲は、
芦屋市から長田区まで(会社は、東灘区)の約10キロ位、今の会社にも、
自転車で通いその姿が「震災で頑張る看護婦さん」のドキュメンタリーの映像に映っていた事も有りました。
 車で国道を走っていると、魂が抜けた様な面持ちで、
いつ見てもずっと道端の同じ所に座り込んでいるおじさん、
そんな人が何人となく目に付きました。
 また、震災をいつまでも呪う事しか出来ない人、
自分では何もせず只、行政、政府に対して文句を言っている人、
被害者意識の過剰な人、そんな人を見るたびに
「負けたくない」という思いが強くなって行きました。



続く




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